Think Globally, Act Locally!!
(地球規模で考え、地域で足元から実践)
令和元年11月28日
今年は亥年(中国などは豚年)ですが、残すところ1ヶ月になりました。
私の生家では、母が農業の傍ら肉豚肥育を始め、父が大工の組を解散してからは、二人で親豚を飼い子豚を産ませ、我が子みたいに大事に育てて、ブランド豚を育成していました。
白豚を飼育し始めたのは、私が小学4年生の時でした。
阿久根市の叔父の家で白豚を飼い始めて、収入の足しになるとのことで、我が家でも飼育することになりました。
10キロメートル程離れた豚の競り市に行き、確か3千円ほどで競り落とし、母と二人で子豚をリヤカーで運び、父が作った小さな豚小屋で飼い始めました。
当時は、白豚が黒豚より早く大きくなるので、白豚が広く飼われていました。
学校から帰ると、山の畑で育てた野菜を大きな藁切りで小さく切断し、芋は箱に入れて芋切りでたたいて小さくして、釜に入れ煮て、次の日の豚の餌を毎晩つくるのが私の日課でした。
毎朝6時頃、自転車で豆腐屋に行きオカラを買い、餌と一緒にオカラを食べさせると、豚が美味しく食べて、早く体も大きくなり肉質も良くなりました。
ただ、霜や雪のある冬の朝は、耳や指先が冷えちぎれそうで、泣きそうでした。
豚の餌を煮る時の燃料は、休みの日に山から木切れや竹を集めていました。
豚はきれい好きで、豚の小屋を掃除して、敷き藁を取り替えてやると、新しい敷き藁の臭いを嗅いで、喜んで走り回ります。
夏には水を体にかけて洗い、「ヨ-シ・ヨ-シ」と声掛けしながら、腹や足の付け根をブラシで撫ぜてやると、気持ちよくなって動かなくなります。
6ヶ月程で100kg超に成長すると、豚を業者に出荷していました。
何故か出荷が決まる頃になると、豚も何かを感じるのか?ほとんど餌を食べなくなるのが不思議でした。
業者の車が来て、車で運び出される時の豚の甲高い悲鳴は、周りの山中に響いて悲しいものでした。
当時は、豚肉は高くて食べられませんでした。また、かわいそうで豚肉は食べないと思っていました。
しかし、年を重ね感傷的な思いは消え現実的になってしまい、最近は「薩摩の豚は美味しい」と、良く食しています。
人間なんて、いい加減なものですね。
理事長 久留 正成